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29日後に行政書士試験を受ける人 「全人類のリテラシーの基本になりそうな判例」


クソデカ主語、ダメ、絶対。

次の判例は昭和57(オ)第902号、文献等では「殉職自衛官合祀事件」とされる、職務中の事故で亡くなった自衛官が神社に殉職自衛官として合祀されたことを、キリスト教を信仰している遺族が宗教上の人格権を侵害されたとした事件に関する最高裁判所の判決です。憲法第20条「信教の自由」、民法第709条「不法行為による損害賠償」において引き合いに出されることの多い判例で、過去に行政書士試験でもこの判例を念頭に置いた出題がされたことがあります。主文で原告の請求は棄却され、次のような判断が出たことで知られています。

人が自己の信仰生活の静謐を他者の宗教上の行為によつて害されたとし、そのことに不快の感情を持ち、そのようなことがないよう望むことのあるのは、その心情として当然であるとしても、かかる宗教上の感情を被侵害利益として、直ちに損害賠償を請求し、又は差止めを請求するなどの法的救済を求めることができるとするならば、かえつて相手方の信教の自由を妨げる結果となるに至ることは、見易いところである。信教の自由の保障は、何人も自己の信仰と相容れない信仰をもつ者の信仰に基づく行為に対して、それが強制や不利益の付与を伴うことにより自己の信教の自由を妨害するものでない限り寛容であることを要請しているものというべきである。

 最高裁判所大法廷判例昭63・6・1

静謐、マンションの広告以外で初めて見ました(そこではない)。

判決文に特有の言い回しですが、要するに「自己の信教の自由を他人に害されたことに不快感を持つことは当然としても、それで権利が侵害されたとして損害賠償や差止請求をできるとするのはかえって他人の信教の自由を妨げる」「信教の自由の保障は、誰でも自分と相容れない信仰をもつ者の信仰に基づく行為によって自己の信教の自由を妨害するものでない限り寛容であることを要請している」ということです(後者はそこまで難しい言い回しではないのでほとんどそのままですが…)。

国民に対してここまで他人の信仰に対する寛容さを要請しているのは、良くも悪くも(筆者の主観ではどちらかと言えばいい意味で)日本らしい判例であると思うと同時に、日本人としては「全人類がそれなら苦労しないよ!」と思わず考えてしまう判例です。

ところでこれ、「信教の自由」を例えば「思想及び良心の自由」や「表現の自由」といった憲法で保障された他の精神的自由権に置き換えても成り立つと思います。「思想及び良心の自由」は他人が何を考えてようが自由というのは当たり前なので、「表現の自由」をあてはめてみると、「自分が不快感を持つ表現に対して権利が侵害されたとするのは他人の表現の自由を妨げる」「自分の考えと相容れない表現が、自分の表現の自由を妨害するもの(あるいはその他の権利を侵害するもの)でない限り寛容であることを要請している」…もちろん元の判例とは違う内容なのでそのままあてはめるのが必ずしも適切とはいえませんが、インターネット上で誰もが自分の考えや作品を表現できる時代に心がけるべきことであるように思います。他者の権利を不当に侵害する表現でない限り、不快感を持ったからというだけで表現の自由を規制しようなどという不寛容な態度は現代の日本では好ましくないというようにとれますが、どうも最近はそのようなことが平気でまかり通ると思っている人が時々います。たいていそういったところからインターネット上での小競り合い、小競り合いですめばいいのですが炎上につながることもあります。

当サイトの記事を普段から読んでいる人ならわかると思いますが、筆者は他人の表現の自由を不寛容に侵害する行為全般が許せません。「信教の自由」だけではなく「表現の自由」についても、少なくとも日本のインターネットユーザーはもっと互いに寛容であること、たとえ相手方が他人の表現の自由を不寛容に侵害しているとしてもその行為や関連する行為以外に対して侵害し返さないことが必要であるように思います。

Posted in 資格(試験対策・行政書士登録準備)